こんにちは、すがらです!
8月31日放送の24時間テレビ2024で特別ドラマ『欽ちゃんのスミちゃん』が放送されます!
今回は超大物芸能人・萩原欽一さんの奥様であるスミちゃん(萩本澄子さん)にスポットを当てたドラマですが、欽ちゃんが10代の頃から現在までを追いかけたストーリーということで、若かりし頃の欽ちゃんの活動も再現されるとのこと。
若い頃の欽ちゃん、どんなお姿だったのでしょうか?
今回は欽ちゃんの昔の顔画像や活躍について調べてみました。
欽ちゃん(萩本欽一)の若い頃は裕福から極貧生活を経験
今なお絶大な支持と人気が高い欽ちゃんこと萩原欽一さん。
いつも穏やかなイメージですが、ご経歴を調べると極貧時代を経験されていました。
お生まれは1941年。お父さんのカメラ販売業が成功し、幼少期は裕福なご家庭だったようです。
お母様はお嬢様育ちで『愛人を囲うのは男の甲斐性』という価値観を持ち、お父さんが愛人と出かけるのを是認していたそう。欽ちゃんはお父さんと愛人について浅草へよく出かけたことがきっかけで芸能界に興味を持ったのだそうです。
しかし小学5年生になった1952年にはお父さんの事業が倒産し、高校時代には夜逃げを余儀なくされました。裕福な家庭から一転し極貧生活から抜け出す策として思い至ったのが、幼少期に浅草で見た”面白い人が面白いことをしてお金をもらう”という姿。
中学卒業と同時に喜劇役者の大宮敏充さんに弟子入りを請うものの、「せめて高校を出てからおいで」と断られていました。
大宮敏充さんの言葉は至極真っ当ですが、中学で誰かに弟子入りしようという発想がそもそもすごいと思いませんか?しかも大宮敏充さんは戦後浅草の喜劇界・テレビで一世を風靡するほどの大物だったといいます。そんな方に声をかけられた欽ちゃんの度胸は凄まじいことがうかがえますね。
高校卒業後すぐ、再び入門を請おうと中学時代に知り合っていた演出家の緑川士朗先生に連れられ大宮敏充さんがいる浅草松竹演芸場へ赴いたものの、直前で東洋劇場に入門されました。
連れて行ってもらった緑川先生に「もし”おまえ、誰だっけ?”って言われたら、すぐ帰ろうな。ダメだったら俺の劇場に入れてやるから」と言われ、本命がダメだったから入れてくださいというのは失礼だなと感じ、会わずして緑川先生の東洋劇場への入門を決めたとのこと。
しかし、当時はお笑い養成学校のような『教え』は一切なく、劇場で先輩の技を見て盗み、自分で気付くのが修行というスタイルだったそう。加えて本来人見知りであった欽ちゃんは与えられた3つのセリフのうち1つしか言えず、ついには入門して3ヶ月後に緑川先生からクビを言い渡されてしまいました。
3つしかセリフがないのに1つしか言えないなんて、これはもう致命傷ですよ。
それくらい才能がない新人だったわけ。
それで3か月くらいしたとき、僕を入れてくれた演出の先生に呼び出されてね。
「この世界はダメだった場合の潰しがきかない。辞めるなら早いほうがいい。今までいろんな奴を見てきたけど、早ければ1週間くらいで才能の片鱗が見えてくる。3か月経っても、お前からはセンスというものがまるで見えてこない。今日で終わりにしよう」って、こう言われたわけ。出典:GetNaviweb
しかし、師匠筋の池信一さんが欽ちゃんの威勢のいい「はい!」という返事をいたく気に入っていたために「あの”はい!”に免じて残してくれないか」と直談判し劇場をを続けられることになったそうです。
新しい挑戦を始めると、必ずと言っていいほどそれに反対する人に一度は出会いますが、やはり『人から応援される』というのはもの凄いパワーを持っているのですね。
昔の顔画像は?
そうして徐々に存在を認められ、舞台の主役を任されるようになった欽ちゃん。
7歳年上の先輩・坂上二郎さんがこれに反発しアドリブを入れ、欽ちゃんもアドリブで返したところお客さんに大ウケし、1966年にコンビを組むことになったそう。
最初は主役に据えられた欽ちゃんに反発するアドリブだったため、坂上二郎さんとのコンビは消極的だったようですが、「あんなにウケたんだから、もう一回だけ…」と思っているうちに人気に火がつき一気に知名度も上がりました。
その当時の画像がこちら!

こちらは1968年、コント55号を結成し2年目のお二人。左側が欽ちゃん、右が坂上二郎さんです。
欽ちゃんは27歳。

こちらは1976年の欽ちゃんです。
1971年には当時大人気だった番組『スター誕生!』で初の司会を経験し、コメディアンとしてバラエティにもソロで進出していました。

こちらは1977年2月。結成11年目で欽ちゃんは36歳ですが、20代の頃とほぼ変わりませんね。
全盛期はいつ?
そんな欽ちゃん、テレビ番組に出演した1週間の総合視聴率から『視聴率100%男』と呼ばれていたそうですが、全盛期はいつからいつごろなのでしょうか?
調べてみたところ、1968年にはテレビ番組『お笑いヤマト魂』にレギュラー出演するようになり、映画、ラジオ、テレビ司会と活動幅を広げていき、1983年に過労で倒れ85年には休業宣言しているので、全盛期は70年から80年前半にかけてではないかと思われます。
- 1968年
『お笑いヤマト魂』初のレギュラー出演
『お昼のゴールデンショー』
『コント55号の世界は笑う!』
映画『コント55号・世紀の大弱点』初の映画主演 - 1969年
『コント55号!裏番組をぶっとばせ!』
『コント55号のなんでそうなるの?』
『チーター55号』
『みんなで出よう!55号決定版』
『ウオー!コント55号!!』
『コント55号!!笑ってたまるか!?』
映画『手』制作 - 1970年
ラジオ『コント55号の歌謡大行進』初のラジオレギュラー
映画『俺は眠たかった!!』制作 - 1971年
『スター誕生!』初の司会 - 1972年
『オールスター家族対抗歌合戦』
『日本一のおかあさん』
『欽ちゃんのドンといってみよう!!』
『シークレット部隊』第1話出演 - 1973年
『シャボン玉ボンボン』 - 1975年
『欽ちゃんのドンとやってみよう!』
『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』 - 1976年
『欽ちゃんのどこまでやるの!』 - 1978年
『24時間テレビ・愛は地球を救う』司会 - 1979年
『全日本仮装大賞』 - 1981年
『欽ドン!良い子悪い子普通の子』 - 1982年
『欽ちゃんの週間欽曜日』
『欽ちゃんの全日本爆笑CM大賞』
こうして見ると『視聴率100%男』の異名は伊達でなく、10年以上相当のエネルギーで過酷なスケジュールをこなしていたのだなと感じられますね。
過労で倒れられるまで長い間活動を続けていたのはものすごいバイタリティだったんですね。
まとめ
ここまでお読みいただきありがとうございました。
今回は欽ちゃんの若い頃について調べてみました。
- 欽ちゃんの幼少期は裕福だったが、中学時代は極貧生活を余儀なくされ、夜逃げを経験した
- 父とその愛人と連れ立って浅草に出かけていたのが芸能に興味を持つきっかけになった
- 中学卒業後に大宮敏充さんに弟子入り志願したが「せめて高校を卒業してから」と断られた
- 高校卒業後は中学の頃に知り合った演出家の緑川士朗先生の東洋劇場に入門した
- が、3ヶ月でクビを言い渡される
- 師匠筋の池信一さんの説得でクビを免れる
- 欽ちゃんの若い頃は今とあまり大きくは変わらない
- 1966年にコンビ『コント55号』を結成し、大ブレイクした
- 1983年に過労で倒れて85年に休業宣言している
- 全盛期は70年から80年前半
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