こんにちは、すがらです!
8月31日放送の24時間テレビ2024で特別ドラマ『欽ちゃんのスミちゃん』が放送されますね!
今回は萩原欽一さんの奥様であるスミちゃん(萩本澄子さん)にスポットを当てたドラマなんですが、欽ちゃんの10代から80代までが描かれたストーリーとのこと。
欽ちゃんといえば、人気に一気に火がついた『コント55号』ですよね。劇場の先輩である坂川二郎さんとコンビを組んでいたのですが、現在は…というと残念ながらすでに亡くなっているそうなんです。
それはいつごろのことだったのでしょうか?また、坂上二郎さんの病気や死因についても調べてみました。
欽ちゃんが大ブレイクした『コント55号』
欽ちゃんがコント55号を組んだのは1966年。
相方は欽ちゃんが入門した東洋劇場『フランス座』の筆頭で、欽ちゃんが舞台の主役に据えられると反発してアドリブを仕掛けてきたのだといいます。
そのため欽ちゃんもアドリブで返すとお客さんに大ウケしたものの実は仲はあまり良くなかったそう。
「いい印象はなかったなぁ。僕が外様なものだから、二郎さんはいつも無茶なアドリブを飛ばしてくる。悔しいから、こっちもアドリブでやり返す。まるで芸の闘い。スリリングで最高に面白かったけど、これ以上やったらケンカになるというくらい火花が散ったっけ」
出典:週刊女性PRIME
舞台で共演して半年でバチバチのアドリブの闘いに疲れ果て、欽ちゃんはフランス座を飛び出しました。その後キャバレー営業やテレビのちょっとした役で食い繋いでいましたが、あまり稼げなかったそう。
1966年に坂上二郎さんの麻雀のメンバーがたまたま足りず欽ちゃんに電話がかかり、思いがけずネタを話したところでコンビ結成に繋がったとのこと。元が不仲だっただけに、「この一回きり」と思って舞台を共にしたところ大ブレイクし、継続したコンビになったそうです。
不仲だった関係からは一転、コンビを組んでからは欽ちゃんがネタを考え、欽ちゃんのアドリブに応えていたそう。
55号のコントの基本は欽ちゃんの無理難題に二郎さんが精いっぱい応え続ける構図だった。それは異常な欽ちゃんの世界に正常な二郎さんが巻き込まれていく構図でもあった。欽ちゃんは「台本があるのはコントじゃない。ネタは2度やると面白くないから1度しかやらない」と、55号のコントは設定以外アドリブだったことを明かし、二郎さんへの突っ込みに関しては「二郎さんの動きを見て決めていた。疲れてるな、もっと疲れないかなと考えていた」と話した。
出典:スポニチ
『飛びます、飛びます』や『コタローね』というギャグは一度は耳にしたことがある方も多いと思いますが、このネタは坂上二郎さんのものでした。
相方の坂上二郎の現在は亡くなっていた!病気や死因は?
『コント55号』が1968年ごろから人気に火がつきその後、欽ちゃんはバラエティーの司会、坂上二郎さんはコメディアンだけでなく俳優・歌手として、バラバラの活動をされていました。
そして2011年3月10日、欽ちゃんが富山での撮影が終わり飛行場へ向かう車の中でのラジオで坂上二郎さんの死を知ります。
当時、坂上二郎さんは2010年12月に2度目の脳梗塞で倒れて入院しており、欽ちゃんもお見舞いに訪れていたそうです。
「“今回の明治座は無理だな”と弱音を吐いた二郎さんだったけど、よくしゃべるのよ。で、帰り際に“欽ちゃん”と呼び止めて握手を求めてきた。テレくせぇことするなあと思って手を握ったら、ずいぶん柔らかかった。二郎さんは、僕の顔を見てニッコリ笑って何も言わなかった。いま考えたら、あれが“さよなら”だったのかもしれないな。
訃報を聞いてからも、なぜかしばらくは、悲しくはなかったね。何も実感が湧かなくてさ。でもその日の夜、NHKのニュースでアナウンサーが“二郎さん、最高におかしかったですね”と笑顔で締めたとき、初めて泣けてきたんだ」出典:週刊女性PRIME
2011年3月10日といえば、あの東北大震災の前日でした。
新幹線が動いておらず、上野から宇都宮まで在来線に乗って、タクシーで葬儀に駆けつけたのだそう。
しかし、坂上二郎さんの娘さんも参加できず、寂しい葬儀だったと語っています。
最初は不仲であった関係でしたが、コンビを組んで信頼し合えるようになったということが素敵だなと思いました。
まとめ
ここまでお読みいただきありがとうございました。
今回は欽ちゃん の相方・坂上二郎さんについて調べてみました。
コメント